エルサレム旧市街で出会った人々(2)
岩のドームの近くの小さな路地に暮らすパレスチナ人のサイマさん(仮名)と知り合いになる機会がありました。
彼女は、ご両親とお姉さん、妹の5人家族で、現在21歳。
エルサレム・ヘブライ大学の学生さんです。
お姉さんのマハさん(仮名)は、アル=クドス(エルサレム)大学を卒業しました。
アル=クドス(エルサレム)大学はエルサレムにあるパレスチナの大学ですが、そこを卒業しても、イスラエル側ではいい職に就けなかったそうです。
それで、サイマさんは、ヨルダン川西岸にあるパレスチナの大学に進むことを考えました。
ヨルダン川西岸はエルサレムから45分で行ける距離です。
しかし、実際には、国境での検問があり、毎日片道2時間の通学になってしまいます。
いろいろ悩んだ挙句、サイマさんは、エルサレムにあるイスラエルの大学で勉強することを決めました。
今後、イスラエルで、イスラエル人と共生して仕事をしていきたいという覚悟の表れでもありました。
アラビア語が母語の彼女にとって、ヘブライ語での勉強は決して易しくはありません。
それでも、頑張るしかないと彼女は語ってくれました。
彼女の専攻は国際政治です。
ある時、大学の授業で、
「エルサレムで生まれ育った人は手を挙げてください」
「両親がここで生まれ育った人は?」
「祖父母がここで生まれ育った人は?」
と質問されました。
講義に出ている学生の中で、最後まで手を挙げていたのは、サイマさん一人だけでした。
その時、講義を受けていたのは、サイマさん以外全員イスラエル人。
それで、祖父母の代からエルサレムに住んでいたのは、パレスチナ人であるサイマさんだけだったのです。
それを質問した教授も、エルサレムにもともと住んでいるのはパレスチナ人であることを改めた確認したかったようです。
ご自宅を訪ねていたとき、サイマさんがダンスのレッスンに出かける時間がきてしまったため、その後はお母さまと長々と話し込んでしまいました。
お母さまの話によると、1967年の第3次中東戦争後イスラエル統治下となった西エルサレムに暮らす人は、ヨルダンのパスポートを保持しているんだそうです。
しかしながら、ヨルダンに行ったところでヨルダン人扱いされることはありません。
また、イスラエルが発行する身分証明書を所持していたとしても、イスラエル人と同等の扱いを受けるわけではありません。
かといって、パレスチナのヨルダン川西岸に暮らせば、さらに自由のないパレスチナのパスポートになります。
ヨルダン川西岸の人達は、許可を取らないとイスラエルに入って来れません。
ガザ地区にいたってはさらに厳しく自由が制限されます。
そうしたことを考えて、母のワルダさんも、サイマさんに、エルサレム・ヘブライ大学への進学を勧めたんだそうです。
エルサレムに暮らすパレスチナ人一人一人に、それぞれ困難な状況と複雑な思いがあります。
それは、イスラエル人にとっても同じことかもしれません。
そんな中で、彼らは、進路を決めるときだけではなく、日常生活の中のいろいろな場面で、「共生」という言葉に向きあい、自らのとるべき道を慎重に選択し続けている。
そんなことをそこかしこで感じた今回のエルサレム訪問でした。